Cielo Estrellado's Reports
国鉄手宮線 Part1
北海道最古の鉄道は、小樽人に今も大切にされて眠っていた
2009年8月10日 調査、2008年10月05日 執筆
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まえがき
1880年11月28日、北海道で初めての鉄道が開通した。後の手宮線を含む、手宮〜開運町(初代小樽駅:現在の南小樽駅)〜札幌の区間である。
恐らくは、多くの人が、この手宮線が北海道初の鉄道であることを知らないであろう。
1880年の開業から1985年の廃止まで、旅客営業の休止と再開を繰り返しながら、1世紀弱もの間働き続けた手宮線。
だが、特筆すべきは「北海道初の鉄道」という栄誉と1世紀に亘る歴史だけではない。
なんとこの手宮線は、廃止時点の面影をほぼ完全に残しきっているのである。
細かい部分は撤去が行われているが、大部分は廃線跡が残っており、観光地化している状態でもある。
小樽の人々は、この廃線を撤去せずに、かの小樽の地に留め続けているのだ。その事実が、私の胸を打つ。
私はこの感動に強く打たれながら、6歳の頃に父と旅した思い出の地、小樽の土を踏みしめる。
◆手宮線概略
手宮線は、もともと1880年に開通した「官営幌内鉄道」の一部として開通した区間である。
開通当初の駅は手宮、開運町(現在の南小樽)、朝里、銭函、軽川(現在の手稲駅)、琴似、札幌であった。
手宮〜南小樽が「手宮線」となったのは、官営幌内鉄道国有後の1909年10月12日のことだ。
手宮線の歴史は下記の年表をご覧頂きたい。
◇西暦/年号/月/日 | ◇概略 | ◇内容 |
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1880年(明治13年)11月28日 | 手宮線の起源 | 手宮線の前身、「官営幌内鉄道」が手宮〜開運町(現在の南小樽)〜札幌を開通。 |
1906年(明治39年)10月1日 | 国有化 | 1889年末に北海道炭鉱鉄道に譲渡された後、当鉄道ごと国有化される。 |
1909年(明治42年)10月12日 | 「手宮線」に | 手宮〜小樽(現在の南小樽※註1)が「手宮線」として指定される。 ※註1 - 1881年(明治14年)5月22日に「開運町」から「住吉」に、1900年(明治33年)6月11日に「住吉」から「小樽」(初代)に改名。 |
1912年(大正元年)8月6日 | 慌しい途中駅の開業 | 手宮〜小樽(初代)間に「色内仮停車場」を新設※註2。 ※註2 - この後2度休止され3度再開されている。この間駅への格上げもあったが、休止され、復活の際には仮乗降場に格下げされての復活となった。 |
1920年(大正9年)7月15日 | 廃止時の形が完成 | 小樽駅(初代)を南小樽駅に改称。 |
1962年(昭和37年)5月14日 | 旅客営業廃止 | 旅客営業を廃止※註3。その後廃止まで復活することはなかった。 ※註3 - 過去に2回旅客営業の休止があり、いずれも後に復活していた。 |
1962年(昭和37年)5月15日 | 手宮線の斜陽 | 色内仮乗降場廃止。 |
1985年(昭和60年)11月5日 | 105年の歴史に幕 | 手宮線、全線廃止。 |
0.思い出の地、再び | 2009年8月10日 札幌駅 -> 南小樽駅 | ||||||
12:05 前日、室蘭本線旧線(栗丘〜栗山)を辿るために峠を徒歩でひとつ越え、その夜に小樽運河へと赴いた上、ホテルでの就寝が日付変更後だったため、疲れが溜まっていたためか寝坊した。 起床時間は忘れたが、札幌を出たのは土産物と食料を購入してからだった。 函館本線 銭函〜朝里〜小樽築港にて
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12:16 快速エアポート111号(3873M)で南小樽駅に降り立ったのは、12時16分のことだった。 函館本線 南小樽駅にて
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1.調査開始 - まずは始発駅から | 2009年8月10日 南小樽駅構内 | ||||||
【地図を表示】 早速、手宮線の上り側終端である南小樽駅構内を臨む。 函館本線 南小樽駅にて |
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廃線側に手宮線のものだった鉄橋があった。 橋梁に書かれた基本データを確認したところ、この橋梁は「於古発川橋りょう」という名前のようで、起点から905mの地点に架かっていたようだ。 旧・於古発川橋りょう:函館本線 南小樽駅にて
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更にその橋梁の奥を見ると、このような空間があった。 旧・手宮線ホームか:函館本線 南小樽駅にて
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跨線橋から小樽・余市方面を臨む。 ちなみにこの線路は、踏切の奥へも続いている。 函館本線 南小樽駅にて
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2.調査開始 - 思い出の国の廃線歩き | 2009年8月10日 南小樽駅より徒歩で色内・手宮方面へ | ||||||
12:38 南小樽駅を出て駅舎を眺める。 時刻は12時半を回ってしまった。いよいよ、徒歩調査を開始する。 南小樽駅駅舎:函館本線 南小樽駅にて |
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南小樽駅を出て最初の踏切、曙町通り踏切から南小樽駅を臨む。 函館本線 曙町通り踏切(南小樽〜小樽)にて |
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小樽方面から731系の区間快速(3433M)がやって来た。 函館本線 曙町通り踏切(南小樽〜小樽)にて
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12:48 南小樽駅から小樽駅方面に150mほど進んだところに、次は鉄橋がある。 函館本線沿線(南小樽〜小樽)にて
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函館本線の標高が高くなり、沿線から廃線を確認することはできないと判断。 南小樽駅から450mのところに、二つ目の踏切「相生町踏切」がある。 相生町踏切付近:函館本線 南小樽〜小樽にて
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12:58 相生町踏切から南小樽方面を臨む。 右が下り線(小樽方面)、中央が上り線(札幌方面)の現行線。左側には草生したスペースがあり、架線もそこまで確保されている。そのスペースにあるのが手宮線だ。 相生町踏切:函館本線 南小樽〜小樽にて
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相生町踏切から小樽方面を臨む。 相生町踏切:函館本線 南小樽〜小樽にて
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またも一旦函館本線の沿線から外れて、一本外れた道に入る。 相生町踏切から小樽方面に更に260mほどの位置に、今度は函館本線を横切る「花園橋」がある。 写真は南小樽方面を俯瞰したもの。 花園橋:函館本線(南小樽〜小樽)にて
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今度は小樽方面を俯瞰する。 花園橋:函館本線(南小樽〜小樽)にて
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花園橋の東詰めには、大燈籠と石造りの鳥居が佇んでいた。 どうやら、写真奥にある丘の上の水天宮の鳥居だそうだ。 水天宮の大燈籠・大鳥居:函館本線沿線(南小樽〜小樽)にて
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さて、この水天宮の付近から、丘を下って手宮線沿線に下ることにする。 写真は花園橋から手宮方面に100mのところから撮影。 手宮線脇:小樽市山田町4
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この草むらの中に、手宮線の錆色の軌道を発見した。 手宮線脇:小樽市山田町4
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13:17 手宮線跡は明らかに草生しており、とても歩ける状況ではないと判断。再び沿線を離れる。 手宮方面に約200m進んだところで、橋梁の跡に出くわした。 帰宅後の机上調査で判明したが、ここが「於古発川橋りょう」跡らしい。 写真手前側が南小樽側の橋台、写真奥側が手宮側の橋台。 於古発川橋りょう跡:小樽市山田町4
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於古発川橋りょう跡の手宮側橋台。 於古発川橋りょう 手宮側橋台
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跡地は大切に保存されていると聞いていたが、散策路となっていることまでは知らなかった。 |
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於古発川橋りょう跡の手宮側橋台から南小樽側橋台を臨む。 於古発川橋りょう 南小樽側橋台
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案内にエスコートされて路盤上に上れば、そこには錆色の二条一対の軌道が、果てしなく直線を描いていた。 国鉄手宮線。――その路線がいかにして小樽の人々に大切にされ、静かに眠っているかを、私はこの後目撃することになる。 |
国鉄手宮線 Part2に続きます
ついに完全なる錆色の二条一対の軌道を見せた国鉄手宮線。
視界の奥まで伸びていくその鉄路の真の魅力を、私はこれから更に思い知ることとなる。
本格的な廃線跡歩きは、次回の「国鉄手宮線 Part2」にて。公開に乞うご期待。
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