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Dolphin Express Report
小田急小田原線 旧線 百合ヶ丘−柿生
小田急電鉄に残された、数少ない廃線遺構。
2012年7月31日 調査、2012年9月15日 執筆


> Top > Report > 小田急電鉄小田原線 旧線 導入 > 本編(現在地)

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●まえがき

鉄道趣味に小休止を入れてから約1年、私は久しぶりに実地調査に赴くことにした。
リハビリ探訪に選んだのは、愛用路線である小田急小田原線の旧線跡。かねてから存在だけは知っていた場所だ。

小田急線のうちのひとつ小田原線は、東京都の新宿駅と箱根駅伝でおなじみ神奈川県の小田原駅とを結んでいる。
そして今回探訪したのは、神奈川県川崎市麻生区(川崎市の最北区)内、百合ヶ丘−柿生間にある旧線跡だ。

そもそもこの小田急線には、廃線や廃駅、旧線や専用線の絶対数が少なく、必然的に跡地をたどれる物件の数はさらに少ない。
しかしこの旧線、跡地には建造物こそあれど比較的トレースしやすく、旧線が現役だった当時の「連続蛇行区間」が偲ばれるオイシイ区間だ。
夏の盛り、廃線系調査に同行するのは初めてとなる一眼レフ愛機:月篭ミイ(Nikon D3100)を携えて、私は麻生区の地に降り立った。


◆百合ヶ丘−柿生間旧線 概略

小田原線 新旧線地図

まず、今回取り上げる百合ヶ丘−柿生間の旧線(以下、単に「旧線」とする)が生まれるに至った経緯から説明しよう。

百合ヶ丘−柿生間には1974年まで駅がなく、線形も現在と異なり、S字を反転させたような蛇行区間で北東から南西に進路を取っていた。これがいわゆる「旧線」である。この旧線の前後にも蛇行区間があり、旧線区間のものとあわせて「連続蛇行区間」を形成していた。
1960年代から1970年代にかけて多摩ニュータウンへの新路線「多摩線」の敷設が計画されると、その分岐点に百合ヶ丘駅付近が選ばれた。しかし百合ヶ丘付近は先述の連続蛇行区間で、そこを分岐点にすると運行上のネックとなることが予想された。
そこで蛇行解消のために百合ヶ丘−柿生間を付け替え、新たに敷設する付け替え線の上に多摩線分岐駅となる新駅を設置することが決まった。こうして設置されたのが「新百合ヶ丘駅」だ。このため新百合ヶ丘駅は旧線上には存在しない。
1974年の多摩線開通と同時に付け替えが実施され、新百合ヶ丘駅が開業。こうして旧線となった百合ヶ丘−柿生間の既存区間は、小田原線全通以来の役目を現行線に譲ったのだった。

※画像出典:国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。文字は筆者による/昭和49年度 東京 CKT-74-15

◇西暦/和暦/月/日◇内容
1927年(昭和2年)4月1日

小田原線が全線開業(「旧線」の完成)。また、百合ヶ丘駅・新百合ヶ丘駅はまだ存在しなかった※註1

※註1 - 当時柿生駅の新宿側の隣駅は「西生田駅」(現:読売ランド前駅)だった。

1960年(昭和35年)3月25日

百合ヶ丘駅が開設される。

1972年(昭和47年)「東京9号線」計画が確定。小田急多摩線の原型となる計画ができあがる。
新路線である多摩線への分岐点に百合ヶ丘駅付近が選定される。
1974年(昭和49年)6月1日

旧線の付け替えが行われ、新線区間上に新百合ヶ丘駅が開設される。
同日、新百合ヶ丘−小田急多摩センター間が「多摩線」として開業する。

なお、今回のレポートには Google マップを利用した写真位置・旧線跡の紹介マップをご用意している
本レポートと併せてご覧になるとよりすんなりご理解いただけるのではないかと思う。

それでは、「“小田急小田原線 旧線”レポート」 はじめさせていただきます!


新百合ヶ丘駅下り側の様子

7:35(新百合ヶ丘駅)

今回の旧線探索は新百合ヶ丘駅から始まる。時刻はまだ上りラッシュの折だった。
日が高く昇らないうちに探索を進めてしまおうという考えだったのだが、この後結局朝の陽ざしに汗をかくことになり、早起きはさほど意味がなかった(笑)

多摩線分岐のために設けられた駅というだけあり、中間駅としては広い3面6線の構内を持つ。
新百合ヶ丘駅付近には麻生区役所を筆頭に公私交々の施設が集まっており、まさしく麻生区の中心地といえよう。
しかし駅の開設以前は森ばかりの丘陵地で、開設後もしばらくはその状態であったというから驚きだ。今の姿からはあまり想像ができない。

写真は分岐のある小田原・唐木田方面を臨んだもの。左に写っている列車は小田原方面に向かう下り列車で、小田急最古参となった8000形だ。

新百合ヶ丘駅コンコースはなかなかいい雰囲気。

駅コンコースは陽光が差し込んでいい雰囲気。
小田原駅もそうなのだが、こういったアーチむき出しのデザインはお気に入りだ。

新百合ヶ丘駅南口の様子

まずは百合ヶ丘側にある旧線末端を探すため、駅南口を出て東へと進路を取る。
日が高く昇らないうちにとは言ったものの、夏の午前8時前なので既に暑い。ある程度覚悟はしていたので、真昼に探索するよりは楽だろうと思うことにして先に進む。

新百合ヶ丘駅新宿側の様子

小田急線を跨ぐ橋から駅北東側(新宿・百合ヶ丘側)の構内を臨む。
駅北東側には小田原線の複線と2線の電留線の計4線を持つ。小田原線の上下線に挟まれる形で電留線があり、写真では車両が止まっている位置がそれだ。

この写真では判然としないが、旧線跡はまさしく左にある赤いペイントのビルの位置にあった。

※なお、本レポートではまず新旧合流点まで新宿・百合ヶ丘側へ進み、そこまで進んだら今度は旧線跡沿いに小田原・柿生側へと進む。注記はあるが、時折進行方向が変わるのでご注意いただければ幸いである。

ガレージが旧線跡の目印になる

写真左側にシャッターの付いたガレージが見えるだろうか。
旧線跡は本線側から分かれ、ちょうどこのガレージの向いている左側へとのびていた。

なお、画像にマウスを乗せていただくと、旧線跡の線形を赤線で表示できる。
※幅や向きなどは完全ではないので、大体のものとして参考にしていただければ幸いである。

旧線末端(百合ヶ丘側)付近にて
新百合ヶ丘駅の百合ヶ丘側蛇行

旧線末端付近を望遠。
付け替えによって蛇行のいくつかは解消されている。しかし写真奥を見ればお分かりいただけると思うが、新百合ヶ丘駅前後には依然として蛇行区間が残されている。写真は百合ヶ丘側だが、のちほど紹介するように柿生側にも蛇行がある。
旧線の方はさらに写真左へとカーブを描き、現行線にも残る蛇行と連続蛇行を形成していたのだから、百合ヶ丘−柿生間がボトルネックだと評された理由がよく分かる。

新旧合流点(百合ヶ丘側)付近にて
敷地の形が旧線跡を思わせる

ガレージのある付近まで下りてきた。写真の向きは変わらず百合ヶ丘方向。
この敷地の形、そしてその先が現行線に飲み込まれていることを考えると、旧線の路盤を転用してあることを思わせる。

新旧合流地点と思われる場所

百合ヶ丘方向へ歩き、歩道橋へ上がる。
この写真は新百合ヶ丘・柿生方向へと向きを変えていることにご注意いただきたい。

この辺りが付け替え区間の始まりなのではないかと思われるが、新線の路盤が広く旧線跡を飲み込んでいるため正確な位置は把握できない。
ただ、この辺りから旧線が写真右側(南西側)へと分かれていたことは間違いないだろう。

ひとまずおおよその位置を把握できたので、これからは旧線跡に沿って柿生側の新旧合流点に向かうことにする。
特記がなければ、ここからの写真は全て柿生方向を臨むものなのでご注意いただきたい。

新旧合流点推定地点(百合ヶ丘側)にて
意味ありげなスペース

8:00(新旧合流点(百合ヶ丘側)付近)

新百合ヶ丘駅に降り立ってから約30分が経過した。
列車を待って写真を撮ったり細部に目を向けたりしていたので、旧線歩きを始める前から30分も使ってしまった。
が、単純に旧線歩きをするだけならば2時間はかからないので軽い散歩にはよいだろう。この点は後述する。

さて、歩道橋から下りて柿生方向へ歩き出す。例のガレージまでは来た道を戻る形だ。

歩道橋のたもとにはなんだか意味ありげなスペースがあるのだが、ここが合流点そのものなのかは分からない。

新旧合流点(百合ヶ丘側)付近にて

車窓から見たときには、「蛇行」する線形から写真右側のこの道路が旧線跡かと思っていた。しかし航空写真で見るとこの道路は1948年には存在しており、しかも現在の神奈川県道3号だという。

実際の旧線跡はこの道路よりやや左側、たびたび紹介しているあの赤いペイントのあるビルの位置を走っていた。しばらくはこの歩道の左側に沿うようにして旧線跡があるので、歩いても見失いにくい。

フェンスの支柱にはレールが使われている

余談ではあるが、鉄道用地のフェンスには廃レールが水色にペイントされて使われていた。
旧線のものだろうかと勘繰ってしまいたくなる(笑)

旧線跡は両端部を除いてすべて鉄道用地以外に転用されている。航空写真を見ると、複線用地ほどの幅を持った建物が数多く立ち並んでいるので、ある程度廃線慣れした人ならば航空写真だけでも見抜けるだろう。
この寿司屋もその一例だ。あのガレージやビルから線をのばしていくと、ちょうどこの辺りを通る。

上記の写真の駐車場の囲い。
場所が場所だけに怪しい香りがする……

旧線に寄り添う県道もカーブ

カーブしたばかりの県道3号はわずかな直線区間のあと、見えづらいが写真奥の方で左へカーブしている。
この辺りではまだ県道と旧線が寄り添っているので、県道の線形から当時の旧線の線形が偲ばれる。

レポートを書いていてふと思ったが、新線への付け替えは単に連続蛇行を解消できただけではなく、「勾配の大きな蛇行」を解消できたことも大きいように思われた。
この写真の地点から先のカーブに向けては他の蛇行に比べて勾配が大きい。このことは地図を見ていただけでは分からなかったので、調査に赴いた価値があったと思える点である。

歩道から一本中の小道に入る。
この小道の右側に写っているビルの位置が旧線跡。

「新百合ヶ丘駅入口」交差点付近での旧線跡

上の写真の小道を歩くとこの位置に出る。写真左側が柿生方面。
地図で言えば県道3号「新百合ヶ丘駅入口」交差点を一本南に入ったところだ。

時間貸し駐車場の辺りが旧線跡だ。ちょうど複線用地ほどの幅があるが、航空写真で見るともう少し奥まで旧線路盤だったと思われる。

この辺りから旧線跡は県道3号と離れていく。
旧線跡は県道の脇道に沿って続いており、これといった特徴はない。

※なお、赤線は参考程度。実際はもう少し奥に広いはずだ。

側溝のフタに描かれた川崎市章

川崎区に縁があるので、川崎市のこの市章を見ると安心する。
そういえばこの辺りは普段通過するのみだけど、ここも川崎市なんだなぁとふと思う(先述の通り新百合ヶ丘駅すぐそばには麻生区役所がある)。

側溝のフタに描かれた川崎市章

特に変哲のない旧線跡なのでレポートのペースを上げる。
歩道の右脇の旧線跡には目を凝らしながら歩いたが、期待していた境界標のようなものは何一つ見つからなかった。

麻生警察署付近の旧線跡

8:20(麻生警察署前)

チェックポイントの麻生警察署前に到着。ここまで約20分だが、歩くだけならばここまでかからない。
旧線跡はこの警察署前の交差点で県道3号と再び接近し、すぐにまた離れていく。

取材当日は事前調査から焼肉屋が立っている敷地が旧線跡と思ったのだが、地図を見返したところ、さらに左の焼肉屋駐車場辺りかもしれない。
敷地が広いため現在の航空写真を見ても路盤跡が特定できないのだが、この焼肉屋の敷地を通っていたことは間違いないだろう。

旧線の渡河点と思しき場所

この辺りで、これからお世話になる「麻生川」が県道をくぐってやってくる。
県道を東側にそれ、川沿いの舗装路へと入る。

写真は振り返り、百合ヶ丘方向を向いている。
ここで北西からやってくる麻生川と、先述の新百合ヶ丘駅入口交差点付近から細々と流れてくる川(水路?)が合流するのだが、この辺りに旧線の渡河点があったようだ。

この地点も、やはり取材時点とレポート執筆時点では見解が異なった地点だ。
取材当日は写真左側のせりだしが怪しいようにも思ったのだが、レポート執筆に当たり改めて地図を見ると、このせりだしの向きが線形と一致していないことが分かった。
むしろ右側からの水路の方が線形と一致しており、先ほどの焼肉屋の辺りからはこの水路に沿って走っていたと考えた方がよさそうだった。

現段階で分かるのは、渡河点跡はこのアングルに写っているであろうこと、そしてこのせりだしの向きは旧線の向きとは関係がないことだ。古地図を参照しての再検討が必要だろう。

この辺りには道界標が打ち捨てられていた(反対側から覗いて確認済み)。
怪しいと思って撮影したのだが、これが立っていた位置・向きが分からないことには何もわからない。
そもそも「道界」をなんとなくしか分かっていないので、鉄道用地との境かどうかも怪しい。

旧線跡は日産の用地になっている

この渡河点付近を柿生側に向き直る。
写真の通り旧線跡は日産自動車の販売店になっている。
この写真もアングルを誤ってしまっているが、敷地のやや左側(東側)が旧線用地だったようだ。

日産敷地の柿生側末端。百合ヶ丘方向を向いている。
旧線路盤の位置の特定を誤ったため、路盤は残念ながらアングル内にない。
この写真のアングル外、さらに左側を通っていたものとみられる。

上記の写真から柿生側に向き直る。
しばらく進むと道路と寄り添っていた川がここで蛇行し、旧線跡と垂直に交わる。
写真中央の建物がちょうど複線敷き程度の幅を持っていて、なおかつ線形的にも旧線跡だと想定される。
するとここには橋が存在したことになるのだが、護岸の模様が明らかに違う箇所があり、ますます怪しい。

上記の写真と同一地点。
ここだけ護岸の模様が違うので、ここに架橋されていたものと思われる。

旧線そばの「きょうわ橋」

上記の写真の場所は渡れないので、川沿いに柿生方向へ進んで迂回する。

川の蛇行の先には、写真の道路橋「きょうわはし」(漢字表記不明)が架橋されている。
鉄道とは特に関係がないのだが、旧線路盤の特定に大いに役立ってくれた。
旧線はこの橋を左側へ進んだところを走っていた。

なお、この橋を右手に進んでいくと県道3号の「古沢」交差点。

「きょうわ橋」:川崎市麻生区万福寺一丁目にて
旧線跡が沿って走る麻生川。

この橋が架かるのは「麻生川」という川だ。
旧線跡は概ねこの川の東側に沿って走っている。
余談だが、県道3号はこの川の西側に沿って走っている。

旧線と道路との交点。かつては踏切があった?

さて、この「きょうわ橋」から東へ進むと、旧線との交点がある。写真右が百合ヶ丘方向、左が柿生方向。
左の茶色の建物は、先ほどの護岸の写真で説明した茶色の建物と同一だ。

付け替えから半年後の1975年1月にはこの道路が存在しているので、恐らくこの位置には踏切があったはずだ。
とはいえ、それらしき痕跡は何も見当たらなかった。

この交点からは分かりやすい旧線跡が始まる

8:30(旧線跡ハイライト区間:百合ヶ丘側)

この交点で右側柿生方向を臨む。
……よくわかる親切設計な旧線跡(笑)

ここからは旧線跡がはっきり残っており、本レポートのハイライト区間になる。

麻生川に沿って歩く

ここから先は公道ではないので、再び麻生川沿いの道へと迂回する。
麻生川の川岸は木陰みちになっているので、旧線歩きを散歩のように楽しませてくれた。

川沿いの道から旧線へと接近できる公道があったので、旧線側に向かう。
現在は道路があるこの場所を、旧線は横切っていた。左側が百合ヶ丘方向、右側が柿生方向。
左側は「“よくわかる旧線跡”ポイント」から続く資材置き場で右側は駐輪場だ。
いずれも複線用地をそのまま生かしたと思しき幅で続いている。

ここから先は旧線跡を利用した駐輪場が広がっている。
駐輪場はこのまま南進、小田急電鉄の用地にぶつかる。

なお、奥に見える高架は小田急多摩線のもの。

資材置き場の資材を下で支えているのは、なんとレールだった!

この駐輪場は左右を私有地に挟まれており接近できないため、再び川沿いの道へと迂回する。旧線脇の空き地も私有地のようだったが、土地は雑草が伸びるに任されていた。

夏風に揺れるねこじゃらしたちが、行き交う多摩線の列車を見上げていた。

川沿いの道を南下して、多摩線の高架下までやってきた。
土地同士の区切りに柵が用いられているが、これまた鉄道用のものを転用した香りがする。

その袂に、さらにこんなものまで見つけてしまった。

8:45(旧線末端:柿生側)

旧線に接近できる道路が見つからず、次に接近できたときはもう写真の柿生側の旧線末端地点だった。写真は百合ヶ丘方向を向いている。
ここは車窓から見かけたことのある方も多いかと思うが、保線用車両の留置場である。旧線の路盤が活用されているようだ。

保線用車両はいくつかの駅構内や側線に留置されているが、このような編成写真的アングルで撮影できる場所は珍しい。保線車両好きにはオススメしたいポイントだ。

保線用地から柿生方向を臨む。写っている列車は上り列車で、手前の錆ついた線路が旧線跡。

「レール類●置場」と読めるので、資材置き場という扱いなのだろう。

ほぼ同じ地点から新百合ヶ丘・百合ヶ丘方面をもう一枚。
写真上部の高架は多摩線(左が唐木田方面)、列車の走っているのは小田原線。

さて、旧線跡探索はここで一区切りだが、引き続き付近をレポートする。

柿生側の旧線末端地点からさらに南下すると、現行線の「新百合ヶ丘1号踏切」がある。
ここからは写真のように新旧合流点がはっきりと見える。
右カーブを描きながら登っていくのが本線で、ぽつんと左側へ伸びていくのがレール置場へ至る旧線路盤。

この踏切で柿生方向を向くと、ここにも蛇行区間がある。
付け替えてなお蛇行が残存したのだから、旧線時代は相当な蛇行の連続区間だったのだろう。

なお、ここではこのような構図で編成写真の撮影もできる(無トリミング)。
が、これ以上は検障機や周囲の騒がしいものを抜けないので、撮影にはまず向かない。
栗平駅に似て下りカーブがいい印象なのだが……

9:20(柿生駅)

この後みどりの窓口にきっぷの手配に行く用事があったので、登戸駅に向かうためにまずは柿生駅を目指した。
線路脇に道があるので、迷うことなく約10分で到着した。

実はこのあと登戸駅へ向かい、みどりの窓口で夏の旅行のために「急行はまなす」のカーペットカーを10時打ち予約する手はずになっていたのだが、こちらの探索に時間をかけすぎて10時打ちに失敗した(先客アリ)。探索に時間をかけすぎたというより、登戸に窓口がひとつしかないのを知らずに行ったリサーチ不足の感が大きい。心底苦笑。

小田急沿線に残る、数少ない線路跡。
古きものと新しきものが交わるこの場所には、今日もおだやかな時間が流れていたのでした。


●あとがき

先述の通り小田急には廃線・旧線跡がほとんどないため、この線路跡は前々から訪ねてみたい場所だった。
とはいえ百合ヶ丘側には痕跡らしい痕跡はほとんどない。大部分が一般の用地へと転用されており遺構は徹底的に撤去されているように思われる。
肝心の残存部分も現行線の保線設備としてのものなので、はっきりした遺構を求める上では少々物足りない印象を受けた。
幾多の廃橋梁を渡り廃トンネルをくぐり抜けてきた人たちには、正直なところあまりオススメできない。

ただ、地元私鉄の旧線であったこと、そして何より個人としては久々の線路跡歩きだったということもあり、散歩気分も混じって楽しい時間だった。
線路遺構の物足りなさを沿線風景や最後の保線用地の風景が穴埋め(それ以上か)してくれたとも言えるだろう。
私のように立ち止まる時間が多くなければ一時間少々かそれより少ない時間で回れるので、保線車両好きの方、散歩気分で小田急の線路跡を訪ねてみたい人にはおすすめの旧線だ。

私自身としてはレポートの写真にいくつかの補填が必要なので、またいつか訪れるかもしれない。


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