白の大地に恋をして
〜 White Hawk and Snow Rabbit #3
初めて乗る電車に辿り着くまでには、人間にはなんともない試練の数々が――
2010年6月6日 執筆完了・html化
駅を目の前にして、彼らは緊張しきっていた。今日、ついに彼らは初めて、人間の乗る電車に同じようにして乗るのだ。
そう思うと、駅舎がやたらに大きなものに見え、同時に周りの人間に自分たちの正体が気付かれてはいないだろうかと、鼓動が高鳴る。
が、周囲の人間はそんな彼らには頓着もせず――知りもしない人間(の形をとっているもの)なのだから至極当然であろう――、ある者は駅へ、ある者は駅から、しょげ込んでいたり、あるいは高揚した気分を纏う足取りで歩いている。
タカヒトがミントを導くようにして、彼らは駅舎内にゆっくりと歩を進めた。
見渡す限り、人、人、人。人間の世界であるから当然のことなのだが、ここまで人間が一箇所に集まっているのは見たことがなかった。
それゆえに彼らは、あまりの人だかりに驚愕や困惑の念を覚えていた。
タカヒトが、はぐれさせないようにミントの小さな手を握る。
ミントも、それに応えるようにきゅっと優しい手を握り返す。
タカヒトの手のぬくもりを感じながら、ミントは彼に引っ張られていった。
彼が目指しているのは、どうやら“ホーム”という人間が電車に乗る場所らしいが、彼女の瞳にはどこにもそれらしきものは見当たらず、代わりにあるのは開いたり閉じたりする扉を持った機械だけだ。
人間が通る度に、機械の扉は開く。そして人間が通り過ぎてしまうと、慌しくそれは閉じてしまう。一体これは何なのだろうか。
ミントが彼に謎の機械の正体を尋ねようとしたところで、先に彼が彼女に声をかけた。
「やはり“はくたか”の運転には一定の規則があったようだな。
――どうやらこれは“時刻表”というらしい。“はくたか”もそれ以外の列車も、全てこの“時刻表”が示す時間に沿って、緻密に動かされているらしい。」
彼は、謎の機械の横にある、数字や文字、記号がこまごまと羅列されている板を指さしながら言った。
彼女が「これが時間を表す数字で、これに沿って動いているのね?」と尋ねると、彼は頷いた。
「人間は本当に凄いわ! 確かに、森にいる時は毎日太陽の差す向きが同じ頃に走ってくる、って思ってたけど……
あんな金属の箱を、あんな高速度で動かすだけじゃなくて、きっちり時間まで決めて動かしちゃうだなんて!」
彼らは改めて時刻表に目をやった。元は人間ではない彼らとはいえ、人間式の時間の読み方と数字程度はもう理解できる。
タカヒトは人間の時間を指し示す道具、針のある時計に目をやってから、その刻の指し示す時間の列を指でなぞった。
「――次の電車は、この列車らしい。これに乗って出かけてみよう。」
「そうね。ああ、ただ駅に来れるだけじゃなくて、ついに人間と同じように電車にまで乗れちゃうなんて! 私たちってなんて幸せなのかしら!」
ミントは自身のかみ締めるしあわせの全てをにっこりとした笑顔に溢れ出させて、待ちきれないわと言わんばかりにタカヒトの服の袖口を引っ張る。
少々無理やりなミントに急かされるようにして、分かった分かったと、彼は謎の機械の前に正対した。
さて、どういう手順で電車までこぎつければよいのか……そう思考を巡らせようとした矢先、突如としてミントの耳がさながらウサギの時と同様にぴくりと動いた。
「何を聞いているんだ?」と彼が訪ねると、彼女は袖口を引くのを止めて、ひとりの見知らぬ男性を指差した。
「当駅到着の電車、只今三分ほど遅れて運行しております。お忙しいところご迷惑をおかけしました。
こちらで遅延証明書を発行しておりますので、必要な方はお取り下さい。……」
よく見ると、例の扉のある機械のそばで、制服を着込んだ駅員さんが、何やら箱を持って紙を配っている。
その紙は電車が遅延した際にその遅延を証明するために発行される証明書なのだが、遅延に遭遇するどころか電車に乗ったことすらない彼らには、その正体がいまいち分からない。
「電車が遅れているみたい、大丈夫かしら。……えーっと、タカヒト、三分ってどれくらいかしら?」
電車の遅延という事実に、ミントが少しそわそわして飛び跳ねながら尋ねる。
三分という数字に、その瞳は実感の湧かない人間式の時間を示す時計を見つめている。
「そうだな、大体ミントがニンジン丸々一本を十本早食いするくらいの時間だな。」
「ふーん。……って、そんなにいっぺんに早食いしたことないわ!」
ほっぺたを真っ赤に染めて怒るミントに、タカヒトはクスクスとからかうような笑い声を挙げる。
「でも、たったそれだけの時間がずれただけで人間は謝るのかしら?」
「ああ、たった三分だろう? ミントは十本食べきれなくても謝らなくて済むのに――人間の時間制限は恐ろしいものがあるな。」
「だから! 早食いなんてしないってば!!」
◇ ◇ ◇
「ところで、電車には乗ったことがないけれど、どうやって乗るのかしら?」
宝石のような瞳は、制服を着た駅員さんの奥、先程からずっと気にかけていた扉のある機械を見つめている。
こうして色々と人間のことを知るのも楽しいけれど、早く電車に乗りたいわ。
ミントは両手を広げてくるくると水平に一回転しながら、タカヒトに尋ねた。
「長老に聞いた話だと、電車に乗せてもらう代わりに、“切符”という紙切れをお金で買って対価とするらしい。」
「待って、でも私たちはその切符もお金も持っていないわ。……もしかして、ここまで来て電車に乗れないの……!?」
笑顔の溢れていたミントの顔に突如絶望の色が広がった。その陰りは瞬時にミントの表情全体を覆っていく。
しまいには両手で頭を抱えて、絶望的な表情でタカヒトの瞳を見詰めた。早くも彼女は人間式の絶望の表現にも慣れてしまったらしい。
「いや、お金ならここにある。これで切符を買えばいいだろう。」
髪をくしゃくしゃといじりだしたミントに対し、彼はハハハと笑いながら、彼らが普段住処の森の中でも使っているポシェットをポケットから取り出した。
それからその中をじゃらじゃらと漁り、何枚かの硬貨を取り出すと、きらりと光るそれをミントに見せてやった。
「た、タカヒト! それ、人間のお金じゃない! どうしてそんな物を持ってるのよ!?」
「これか? この前ミントがいない時に独りで人間の街に行って、
……なんという名前だったか……そうだ、“日雇労働”とかいう方法で一日だけ働かせてもらって、その報酬にお金を貰ってきたんだ。
これがあれば、今日一日を人間の街で過ごすくらいは出来るだろう。」
今度は絶望の色ではなく驚愕の表情が瞬時に広がった。まず「何とかなる」という念よりも、「何故お金を持っているのか」という疑問の方が先行した。
疑問と驚愕に満ち溢れた瞳の色で、彼女はまるで問い詰めるように次々と質問を浴びせかける。
「いつの間に……タカヒト、ありがとう。……でも、どうして私を連れて行ってくれなかったの? どうして黙ってたのよ?」
「ミントに言ったら『私も行く』って言い出して聞かないだろう? 俺はミントに肉体労働なんてさせたくなかったんだよ。」
「肉体労働? だって、人間の仕事って、椅子に座ってやる仕事もあるって聞くわ。……そういうお仕事とは違うの?」
「長老が言っていて、俺も実際にやってよく分かったんだが、“日雇労働”という仕事はどうも肉体労働が多いらしい。ミントには重すぎる。」
「私のことを想ってくれてたのね……タカヒト、本当にありがとう!」
そういうなり、歓喜の収まらないミントは、周囲の人々の目も憚らずにタカヒトの心強い四肢を抱きしめた。
流石に突如のこの行為には、相手がミントとはいえ質問攻めよりもドキッとしてたじろいだタカヒトであった。
タカヒトはポシェットから何枚かの硬貨を取り出すと、それをミントの手に握らせた。
ミントはその中から一際光り輝く一枚を取り出して、それを駅の明かりの方に伸べて晒してみる。タカヒトの努力の証がきらりと煌いた。
彼女はそれを彼への感謝の念と共にきゅっと握り締めると、天井からぶら下がる案内板にしたがって、切符を売ってくれるらしい機械の方へと歩を進める。
限られたお金で何処まで買おうかしら、と、ミントは小さな手に握った輝く硬貨と料金表とに交互に視線を移してにらめっこしながら、独り券売機の目の前で思案する。
とりあえず特急で一駅の六日町まで買っておけばいいだろう、と言われ、彼女は彼とともに慣れない機械に慌てながら、それでも何とか六日町までの切符を買うことができた。
無事に機械から二枚の切符が吐き出されたときは、お互い顔を見合わせて安堵の笑みを浮かべたくらいである。
その調子で彼らは先程の位置まで戻ってきたが、ここでもうひとつ問題が発生した。
「で……この機械をどうやって越えるんだ?」
結局、ここに戻ってきてしまった。ここに戻って来なければ電車には乗れないのだが。
切符を買うという作業まで辿り着いたのはよかったが、それの使い方も、そして目の前のこの機械の越え方もいまいち判然としない。
とにかくこの切符はどこかで効果を発揮し、そしてこの機械は飛び越えてはならないのだけは、なんとなく理性が教えてくれた。
長老からあれこれ聞いておいたタカヒトも、この機械のことはよく知らなかった。
どうすべきか、と考え込む彼を尻目に、ミントは黙って、そのくりくりぱっちりとした両目で、次々と機械を通り抜けていく人間の行動を見つめていた。
うーん、と唸りながらじっくりと人間の行動を観察し、共通点を探っていく。と、ほどなくして彼女はある共通点を発見した。
「見て。あの切符とかいう札を、あそこについてる機械の口に入れてるわ。きっとああすると扉が開かれるのよ。」
その言葉に彼も人間の行動を注視すると、確かにその通りのようにも見えた。
どの人間も、先程彼らが手にしたばかりの切符と同じものを滑り込ませ、そして開いた機械の扉を通り抜けて先へと進んでいる。
とりあえずその方法を真似してみよう、とタカヒトはミントに囁いてから、買ったばかりの薄い切符を手渡してやった。
あまりうろたえていると不自然なので、いたって平静を装って、しかしながら恐る恐る切符を機械の口へと投入してみる。
みるみるうちに切符は吸い込まれてしまった。が、慌てる間もなく、ガチャンという音響に続いてあの扉が開かれ、吸い込まれたはずの切符が目の前にある方の口から顔を覗かせている。
「……通れた……ミント、流石の観察眼だな。」
「えへへ。いつもボーッと683系を眺めてるわけじゃないもの。普段から観察眼は磨いてるんだから、このくらい、……朝、朝……なんだっけ?」
「朝飯前か?」
「ああ、そうそう。朝飯前よ! ……人間のたとえっていうのはよく分からない上に難しいのねぇ。」
ミントは切符を手元に取り戻すと、大きく伸びをしながらはしゃいだ。
それを横に見ながら、ここまで来たらあと一息だ、とタカヒトが謎の機械――彼らはこれを「改札機」ということに未だに気付いていない――の奥で言った。
ええ、ここまで来たらもう大丈夫ね、とミントも微笑みながら頷く。
幸いにも彼らはある程度の漢字は読めたので、どちらのホームが六日町方面かは見当がついた。
六日町方面は二番ホームであったが、タカヒトは間違うことなく二番ホームへの階段の方向へと歩を進めようとする。
と、珍しくタカヒトの心優しい先導を、ミントが彼の袖口を引っ張って制した。
「ちょっと待って。とりあえずやっておきましょう、人間の言葉の確認。」
「ああ、そうだったな。……とりあえずあそこにいる人のところに行ってくるからここで待っているんだ。」
そう言うなり、少女が袖口を離すと同時に少年は小走りで駆け出した。
――“言葉の確認”というのは、どうやら彼らがしっかりと人間の言葉を話せているかどうかを確かめることらしい。
それはタカヒトが実際に人間に話しかける、という一抹の危険をはらんだ方法で行うようだ。
彼女に待っているように言った彼は、早速制服を着た男性、駅員さんに何か話しかけているようだった。
何を話しているのかしらと少し気にはなったものの、彼がやっていることは黙って見ていることにした。
タカヒトの話す人間の言葉には、本物の人間たちには通じているのかしら。もしうまく通じなかったら、変に思われて私たちが人間でないことがばれてしまうかも。
そう思うと、少しだけ鼓動が高鳴る。
「とりあえず、聞いてきたぞ。」
「それで、どうだった?」
「ああ。日雇労働の時のように問題なく会話できたから、俺の話す人間の言葉には今のところ問題なさそうだ。勉強の甲斐があったな。」
そうだった、タカヒトは“なんとか労働”の時に人間と会話しているんだった。
そう思いながら、無事に自分たちの話す人間の言葉が通じたことにふたりは胸をなでおろす。
あまりの安堵ぶりにミントが思わずピースサインを送ると、タカヒトも精悍な顔つきに笑みを浮かべながらピースサインを返していた。
「私もちゃんと話せてるかしら。――流石に実践となると、普段森でやってる勉強とは話が違うから緊張するわ。」
ちょっぴり不安そうな笑顔を浮かべながら、ミントはもう一度くるりと水平に一回転した。
はらりと髪が乱れて、それは芳しい香りを振りまきながらふわりと空を舞う。
「ミントもあれほど勉強したんだ、大丈夫さ。……さておき、問題は全て解決したことだし、ホームに上がるとするか。」
「やったぁ! ついに人間と同じホームに立てる日が来たのね!」
「……ミント、今は俺たちも一応人間だ。あまり大きな声で『人間と人間と』、って連呼してると変に思われるぞ。」
「……そうだったわ。ごめんなさい。どうも私はウサギから抜けきれないわ。」
一番人間に感付かれてしまう行動をとっていたことに、ミントは顔を赤くしてくしゃくしゃと髪を撫でた。
◇ ◇ ◇
一歩一歩、湧き上がってくる歓喜を確かめるようにしながら階段を登りきると、そこは彼らが夢見ていたプラットホームだった。
座るための道具――椅子という名前だと教えられた――が整然と並び、ホーム際には突起のある黄色い帯が敷かれている。
その帯のすぐそばに、きっと電車を待っているのであろう人間たちが列をなしていた。
とりあえずあの列の後ろにいればいいのだろうと、タカヒトとミントは同じようにしてその列の中に自然に紛れ込む。
これが、駅のホーム――彼らは顔を見合わせて、互いの瞳を見つめていた。何も言わずとも、きっと互いの驚きを理解し合っていたに違いない。
と、列車の入線を知らせるアナウンスが鳴り響いた。ぴくりと耳を動かして先に反応したのはミントであった。
「電車が来るわ」と、いかにも待ち切れなさそうな表情を浮かべてタカヒトの服の袖口を引っ張るミント。
タカヒトは「楽しみだな」と呟いてから、先程のようにまたミントの頭を撫でてやった。
ゆっくりと滑り込んできたのは、いつも森のそばを行く見慣れた短い二両編成の列車。
真っ白な車体に青と赤の帯を巻いたそれは、いつもは見ているだけの存在だった。今、彼らはその存在の背に乗り、小さな旅を始めようとしている。
いつもは森から見ている電車ね、とミントが呟いた。タカヒトはそれに頷く。
彼女の気分がすっかり高揚しきっているのは、彼だけでなく誰の目から見ても明らかであった。
ドアが開くと同時に乗客が降りてきた。続いて、目の前で列をなしていた人間たちが次々と列車に乗り込んでいく。
あっという間に目の前の人間たちは列車の中に飲み込まれ、次は彼らがその列車に乗り込む番になった。
ついに、乗るんだ。こっそり手を胸に当てると、鼓動の高鳴りが強く感じられる。
彼らはもう一度互いの顔を見合わせてから、どちらからともなく、恐る恐る初めて乗る電車のデッキに足を乗せてみた。
− つづく −
次回、#4の更新は6月27日の予定です。お間違いなく!
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